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しまぞーり 私のウチナーグチ考 しまぞーり

1960年生まれ、一緒に住んでいた祖母や両親との会話は100%標準語、祖母、 両親間の会話は100%ウチナーグチで、それを聞いて育った私なりのウチナーグチに対する思い出や思 い入れを紹介します。

第16回 曾祖母の勇気

 普段どんなに忙しく生活に追われていても、6月になると何となく戦争のことを考え、昔両親や祖母 から聞いた戦争の話を思い出してしまいます。そう、アメリカの従軍記者が「ありったけの地獄を合わ せたような」と形容した61年前の沖縄戦のことです。今回は母から聞いた曾祖母の話を紹介したいと 思います。 

 私の母方の祖父は終戦(沖縄で公式に戦争が終結したとされるのは6月23日)間際になって防衛隊 に召集され、戦死しました。その前に長男は中国で戦死、満蒙少年開拓団の一員として朝鮮に渡ってい た次男は行方不明(戦後シベリア抑留を経て帰還しましたが)、大阪の軍需工場で働いていた三男を空 襲で亡くしていた祖父は、自分がいなくなったら誰がこの家族(曾祖母、祖母、母ら兄弟5人)の面倒 を見るのか、と抵抗していたらしいのですが、召集に応じなかったら戦後国賊として銃殺される、と区 長に脅され、しぶしぶ応召したようです。

 知念村で暮らしていた母の家族は、戦後すぐに米軍によって強制的に馬天港から軍艦に乗せられ、北 部のある村に疎開(母は「捕虜される」と表現します)させられていました。その前に米軍の兵士が 民家を一軒一軒捜索しに来たそうですが(おそらく日本兵や武器が隠されていないかどうか)、その時 兵士が小さなトランクを開け、中身を地面にどさっと落としたのだそうです。中にはブラジルに移民し た祖父の弟と妹から送られてきた手紙や写真が詰まっていました。曾祖母はそれらを大切にトランクに しまっておいたのです。

 兵士がトランクの中身を乱暴に地面に空けた瞬間、遠巻きに見ていた家族の中から曾祖母が飛び出し、
「ヤナ、うれーブラジルーたーぬどー」(このばか者、これはブラジルの子供たちのだよ)
と、飛び掛らんばかりの勢いで抗議したのだそうです。銃を持った恐ろしいアメリカ兵に対し、言葉も 通じやしないのにウチナーグチで、隣のヤナワラバー(悪ガキ)でも叱るように抗議した曾祖母に皆び っくりした、という話です。

 戦争中曾祖母は孫が中国で兵隊しているから、と言って日本兵を見かけるとなけなしのイモや野菜を 分け与えていたようです。年若い兵隊の姿が孫に重なって見えたり、孫が中国でひもじい思いをしない ように、という思いもあったようですが、その日本兵に防空壕を追い出され、終戦間際に長男を殺され (あくまでも噂ですが、背の高かった祖父は米兵に間違われて日本兵に撃たれた、と言います)、戦後 かなり気落ちしていたことは、想像に難くありません。

 そんな曾祖母はその年の冬、疎開していた村でマラリアに罹りあっけなく亡くなってしまいました。 母たち孫は
ウンメー(オバアより上品な呼び方)、こんなところで死んだら顔に直接土をかけられるんだよ。知 念に帰るまで頑張りよー。」
と励ましたそうですが、曾祖母は
死ねーからー分かいみ(死んだら分かるもんか)」
と応えていたそうです。お見事、と言いたい曾祖母の最後のことばですが、やっぱり切ない。戦争さえ なければ、やさしくて働き者の息子夫婦や大勢の孫に囲まれ、あと10年や20年は貧しくとも楽しく 穏やかな余生が送れたはずです。

 戦闘に巻き込まれたわけではないし、亡くなったのも戦後のことなのでちょっと意外だな、と思ったの ですが、曾祖母の名前も沖縄戦の犠牲者として平和の礎に刻まれています。 6/14/06

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今回の「私のウチナーグチ考」はうちなーぐちの話としてより、沖縄戦の話としてず しりとこたえました。摩文仁の丘の平和の礎を訪ねたとき、入り口でお供えの花を売っていたおばさん たちに「何県?」ときかれ、びっくりして思わず出身地を答えたら、そこまでの行き方を丁寧におしえ てくれました。もちろん私の目的は沖縄戦の犠牲者をお参りすることでしたが、内地の軍人ではなく沖 縄の民間の犠牲者です。きっとひどい目にあわされたであろう内地の軍人をも慰安しているこの人たち の心の強靭さと優しさに、ただただ敬服しました。私が沖縄のことをもっと知りたいと思ったきっかけ でした。まだ入り口にいます。
「ちゃんぷるー・どっとこむ」も「ちゃんぷるー通信」もわたしの道案内です。ちばりよー

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